りんご公園は忍術稽古所?

HISTORY

先日議会で取り上げた弘前藩忍者「早道之者」の反響が大きい。

現在開催中の津軽まちあるき博覧会2019で早道之者の足跡を辿るツアーが3本開催されるのだが、どの日も満員御礼だという。

この早道之者は、1673(延宝元)年に、4代藩主・津軽信政公に江戸で召し抱えられた甲賀忍者・中川小隼人を中心に、1674(延宝2)年に結成された弘前藩の忍びの集団。広瀬寿秀先生の『明治二年弘前絵図―人物と景色を探して』(北方新社)によれば、この忍びの集団は「小隼人目付」あるいは「小隼人組」と呼ばれ、20名が定員で御目見以上の世襲であり、途中一旦廃止されたが、1761(宝暦11)年~1870(明治3)年までつづいたという。おそらく今話題の忍者屋敷は、後期の早道之者の関連施設だったものかもしれない。

以前広瀬先生から見せていただいた明治二年の弘前絵図(現在は弘前図書館蔵)に、早道之者の稽古所が記載されていた。その場所は現在のりんご公園で、位地にして現在レストランやりんご関連商品を販売している〈りんごの家〉の裏のあたり。そこには、「この林を 石森早道稽古所と称し、方二町全林の内に沼あるいは岩石多くあり。明治三年まで役位早道の者(小隼人目付という)年々日を期してこの地において三寸草隠れ、あるいは岩石隠れ等の術を稽古する場なり」と記されていた。このあたりは石森と呼ばれ弘前城築城の際に石垣用の石を採ったところとしても有名だ。ちなみに、同地図によれば、りんご公園の摺鉢山は大星場と表記され、嘉永7(1854)年、工事人夫9,854人により造営された人工の山で、弘前藩の大砲や鉄砲の稽古の的として使用された。星場とは鉄砲などの稽古場のこと。弘前藩は幕府より海洋防御も任されており、黒船が来航した後の1853年頃に、11代藩主・順承(ゆきつぐ)公の号令でこういった大砲訓練所が作られ、家中に洋式の鉄砲訓練が義務づけられたという。※早道稽古所、摺鉢山の話は以前、「路地裏探偵団がゆく!」(青森朝日放送)でも取り上げている。もしかしたら今もyoutubeで見ることができるかも…

更に同地図には、摺鉢山の隣に現在弘前公園の中にある青森縣護国神社の前身〈弘前招魂社〉が記載されている。これは戊辰戦争、函館戦争などで亡くなった戦死者と、明治2年、海難事故で無くなった熊本藩応援員203名を祀ったもの。こうして見ると現在多くのりんごの木に囲まれたりんご公園一帯は幕末期、弘前藩の一大軍事演習場であったことが伺える。

今年、りんご公園が大きく拡張されリニューアルオープンされたが、拡張前、〈りんごの家〉の裏に小高い林があった。それは明治二年の絵図に記された早道之者の稽古所の絵とそっくりで、おそらくこの一帯が稽古所であったこと間違いない。以前、近所に住んでいたという友人から、子どもの頃この林には蛇がいるから近づくな!と近所の大人たちに言われていたという話を聞いた。これは、この場所に近づかせないために、わざと流された言い伝えなのかもしれない。りんご公園拡張前はこの敷地部分は一般の方が所有されていたが、リニューアルにあたり弘前市が買い取り林を伐採し小山のようにし、山頂に東屋を建てた。林を伐採したのは樹木が老いて危険だったことからやむを得ずということだったらしいが、市関係者はこの林が忍者の稽古所であったことを知っていたのだろうか?

いずれにしても、歴史は過去のものではなくて、現在、そして未来へきちんと伝えていかなければならないもの。そういう意味では私たちも歴史の当事者だ。この早道の稽古所も、このままでは今後忘れ去られてしまう可能性があるので、ぜひ、ここが弘前藩の忍者早道之者の稽古所であったという来歴を示す工夫(例えば説明版を設置する等の)を施して、後世に伝え残すことをご検討いただきたいと、先日の一般質問でも要望として述べさせていただいた。

明日、明後日とりんご公園において「りんご収穫祭」が行われるようなので、行かれる方は、ついでにこの早道之者稽古所跡に足を運んでみてはいかがでしょうか?

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