本棚が呼んでいる(つづき)

HISTORY

現在、弘前の街にさまざまな年代の建築物が現存、同居しているのはやはり戦災を免れたことが大きい。

太平洋戦争中、弘前は北東北の軍事拠点として陸軍第八師団司令部が置かれていたにもかかわらず空襲に遭わなかった。 このことについては、「東奥義塾で教鞭をとった外国人教師が帰国後、大統領に弘前を空爆リストから外すよう進言した」等、都市伝説的?な口伝を古老のおべ様たちから聞いたことがあり、津軽ひろさき検定のテキストの編集作業に携わっていた時、是非このことも取りあげたいと資料を探して図書館にこもったことがあるのだが、詳しいことが書かれた文献を見つけ出せなかった。

このことについては気にかかり、その後もいろいろ情報を求めていたのだが、なかなか手掛かりは掴めず長年の謎であった。それがひょんなことから自宅の本棚の中でホコリを被っていた元弘前市議会議員の原子昭三さんが書いた『弘前市政今昔物語』(青森県教育振興会)にその謎に関する記述を見つけるという偶然にたどり着き、嬉しいやら、悔しいやら…。こういうことを灯台下暗しと言うのだろうか(汗)

その本によれば…

太平洋戦争で、多くの日本の主要都市が米軍の空襲で灰じんに帰した中で、文化財、歴史遺産の宝庫ともいうべき奈良・京都・鎌倉などの古都が無傷で戦火を免れたのは、当時、ハーバード大フォッグ美術館東洋部長であった故ラングトン・ウォーナー博士の尽力によるものだった。戦時中、米国では「戦争地域における美術、歴史遺産の保護救済に関する委員会」を設置し、対象リストを作成。大統領決済を経て軍に指令を出し、重要な文化財の集中する奈良、京都、鎌倉の三つの古都に対して爆撃を行わない決定を下していたことは有名だが、他の都市も軍の機密文書で空爆目標からはずすよう配慮を求められていたことはほとんど知られていなかった。その他の都市の中に弘前もリストアップされていた。東北では他に平泉、中尊寺、仙台城、松島、瑞巌寺がリストアップされており、弘前が文化財保護地区として重要視されていたことがわかる。ウォーナー博士は東京美術学校(現東京芸大)に留学し、日本古美術の理解者、研究者として日本文化を広く世界へ紹介した一人で、その経験と研究者の目で全国の貴重な文化財135点を選び、大統領、軍に要保護の進言をなしたのだった。京都、奈良、鎌倉などでは、戦火を免れた感謝の意を込めてウォーナー博士の記念碑が建立されており、この本の著者の原子昭三さんは市議会議員時代の1987(昭和62)年、弘前でも顕彰碑の建立ができないものかと市議会で取り上げたのだが、当時の市は消極的であったらしい。いずれにしても、弘前が爆撃されなかったことは大きな天恵であり、我々市民にとって幸せなことだった。戦時中、弘前公園には第八師団の兵器庫や火薬庫があった。それが爆撃されていたらどうなっていたか…。想像するだけでもゾッとする。私たちの暮らす街はこういった歴史の上に成り立っていることを「知り」、次の世代にきちんと「伝えて」いかなければならない。

10年前、前職の仕事で津軽ひろさき検定のテキスト制作に携わった時、1年間ほぼ毎日多くの時間を図書館で過ごしたことがある。おかげさまで図書館の郷土資料関係の本棚のどの場所にどんな本があるのかだいぶ詳しくなった。 図書館の本棚には弘前の成り立ちを伝える面白い本がたくさん眠っていて、今では誰も知らない凄いエピソードがたくさんあった。本を発行した当初はそこに記され世に広まった史実も、時間の流れとともに風化していったのだろう、もったいないくらい「いい話」がたくさん眠っていた。 自分はその時、「津軽ひろさき検定」の使命は、単なる知識量を計るものではなくて、本棚でホコリを被っている、郷土の「いい話」をもう一度世に出すことが使命なんだと、本棚から呼び出されて知らされたような気がした。

今回もまたひょんなことから本棚に呼びだされた。もしかしたら何かのメッセージ?なのだろうか(笑)

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