過去は目の前にあり、未来は後ろにある?

雑感

コロナウイルスの行く末がまったく見えない。

現時点でその行く末はわからない。誰もわからないのだ。

この騒動の中で僕は先が見えない、予測できないということは本当辛いことなんだということを学んだ。

先日ふと昔読んだ本に書かれていたある考え方のことを思い出した。 ネイティブ・アメリカンのポピ族は「過去」は視界の前方にあり、「未来」は頭の後方にあるという説を唱えていたそうだ。なぜなら、「過去」におこったことは全て事実。経験してきた事実は見たくなくても目の前にある。だけど「未来」のことは頭の後ろにあって何も見えない。 僕ら現代人はこれからやって来る「未来」は前方にあって、「過去」は置き去りにしてきたものとして後ろにあると思っている。 大昔、日本人にとっては、未来は「未だ来らず」で見えないものだったという。反対に過去は過ぎ去った景色として、目の前に見えるものだった。中世までの人たちは、背中から後ろ向きに未来に向かって進んでいくような感覚で生きていたんじゃないかと。過去が前にあって未来は後ろにあるという認識は、かつて世界各地の多くの民族が共通してもっていたものらしく、日本では16世紀頃から「さき」という言葉に「未来」、「あと」という言葉に「過去」の意味が加わって、人々は「未来は目の前に広がっている」という、今日の誰もが思っているのと同じ認識をもつようになったと。神がすべてを支配していた社会から、人間が経験と技術によって未来を切り開ける社会に移行したことで、自分たちは時間の流れにそって前に進んでいくという認識に変わったのではないかと…。

「このさき」と「このあと」は類義語でともに未来を指す。「このさき」と言うとき、話し手は未来を前にあるものと意識している。しかし「このあと」と言うとき、話し手は無意識のうちに未来を「あと(後ろ)」にあると見なしている。 そういえば、僕たちは日常の中で、これから先のことなのに「後で会おう」という言葉を何気なく使っている。

今回のコロナウイルスもパニックになっていた4月、5月の頃と比べると、医療現場もいろいろと出来ることが増えてきて、世界全体としても対策がとれるようになってきたのではないか? これから先のことは見えなくても、経験してきた過去のことは見えている。データも蓄積できている。 先が見えない不安は本当怖い。 だけど、人類はこれまでも経験と技術によって未来を切り開いてきた。

一方で「過去に学べ、しかし過去は繰り返さず」という相場の世界の格言も頭をよぎる。 それは、過去の値動きや事柄に対する反応を調べて学ぶことはとても大切なことだが、同じ状況でも同じような値動きはしないという意味。

いろんな情報が飛び交い錯綜している中ではヒステリックにならず冷静な視点が大切だ。 こんな時こそ、赤く燃えるのではなくて、青く燃える。僕はそう肝に銘じる。

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