あの日の自分

on the street

先日、昔からの知人で現在青森大学の社会学部社会科学科教授のK氏から依頼され、弘前大学で彼が担当する講義のゲストスピーカーとしてお話させていただく機会をいただいた。この講義は「人口減少社会の再デザイン」をテーマとした学部越境型・地域志向科目で、複数学部による問題意識の「かけ算」、実社会と「学び」の接点の再発見、地域(自らの)地元再発見が狙い。

私に課せられたのは「弘前の足跡、街並、文化」の説明で、長く弘前市の観光振興に携わってきた目線からの話であった。この講義を受講している学生は人文社会学部生もいれば、教育学部生、医学部生もいるし、また、地元生もいれば、他県から来た学生もいる。そういったことから、誰もがイメージしやすい身近なところにフォーカスをあてて説明させていただいた。90分の講義時間の中では、弘前のすべては語れないので、昔から弘前のキャッチフレーズとして使われ、今も知名度では弘前のシンボルである「お城とさくらとりんご」の3つに絞って話をすることに。はじめに今年の「弘前さくらまつり」に出かけた人!と問いかけたら、ほぼ全員が手をあげていたので、狙い通り掴みはOKであった。3つに絞ったとは言え、それでも時間は全然足りない。そこで長年ガイドとして活動をした経験から知り得た観光客のニーズ、観光客が知りたい弘前の「なぜ?」を柱に話を進めた。90分はあっという間で、危うく時間をオーバーしそうになったが、なんとか話したいことは全部伝えることができた。

終了後、ありがたいことに熱心な学生が数名私のところにきて、感想や質問をぶつけてくれた。その中の1人がやや興奮気味に「僕地元生なんですけど、19年間弘前で暮らしてきて、今日初めて知ったことがたくさんありました!」と感想をくれた。

その学生の話を聞いて、私は学生時代の自分を思い出した。

私の学生時代はロックバンドに明け暮れ、地元弘前のことなど考えたことがなかった。それほど熱心だったバンド活動も仲間がそれぞれ就職や進学で地元を離れることになり、バンドは空中分解、大学4年の時に一人ぼっちになった。ぽっかり空いた虚ろな毎日を送っていた時に偶然弘前市の教育委員会の人から弘前の歴史や文化財の話を聴く機会があった。そこで弘前の知らなかった話の数々に触れ目からウロコが落ち、「弘前」をもっと知りたいと思うようになった。

今、振り返れば、あの日が私の人生の一つの転機であった。

私はその学生に「19歳でしょ。まだまだ大丈夫。私は22歳の時に、今日のような話を聴いて、弘前に初めて興味を持つようになって、その後のライフスタイルがガラリと変わったから」と返答したら、K氏は「もしかしたら今日が君の人生の転機になる記念日かもよ」と笑った。そのやりとりから私は30数年前の自分に会えたような気がして嬉しくなった。奇しくも講義の中で、青森りんごの開祖で弘前公園に初めてソメイヨシノを植えた菊池楯衛からのリンゴ産業の発展、今日、日本一と称される弘前の桜を守り育ててきた歴史的バトンリレーの話をしていたので、なんだかシンクロして喜びもひとしおであった。

歴史の話をするのは実は難しい。私は学識経験者でもなく、津軽弁で言うところの「おべさま」。小学生の頃どこの街角にもいたような昔話好きのただのお喋りオジサンである。学術的色彩は薄いが、興味を持ってもらう小ネタは趣味が高じてたくさん収集しているし、弘前に対する興味、好奇心は今なお尽きない。弘前に興味を持ってもらうための「入口」としてお役に立てれるなら本望だし、それが私の役目、使命だと思っている。そんな私を大学の教壇に立たせてくれたK氏には心から感謝します。

あの日の自分に似た学生のこれからが楽しみである。

タイトルとURLをコピーしました