ねぷたキッズ

雑感

コロナウイルスの影響で弘前ねぷたまつりが2年連続の中止となった。

まつり主催関係者も2年続けての中止は苦渋の決断だったと思うが、この状況下ではいたしかたない。

幼い頃、夏といえば「ねぷた」と「蚊帳」だった。ねぷたに参加するにはまだ小さかった頃、この蚊帳の中で遠くで鳴り響いていた「戻り囃子」を聴いた記憶が微かに残る。物悲しい哀調を帯びた「戻り囃子」の旋律は子供ながらに怖いような、切ないような、不思議な感じがした。今でも囃子の中で「戻り」が好きなのは、この頃に刷り込まれたのかもしれない。小学生の頃は、ねぷたに参加するのが夏の楽しみだった。町内や、親の職場のねぷたによく参加した。合同運行のコースは子供にとってはヘヴィな距離であったが、最後に貰うお菓子が楽しみで頑張って歩いたものだ。小学校も高学年になると、同級生や近所の友達たちと町内のねぷたに参加した。まつりの前からねぷた小屋に入り浸っていたら、幹部のオジさんから前燈籠とか、太鼓台を曳く役目を与えられて、誇らしい気分になったものだ。蝋の匂いなのか?ねぷた小屋の何とも言えない匂いが大好きだった。それは夏の匂いの一つとして今もインプットされている。自分が小学生の頃は、阿部義夫さんがけっこうな台数のねぷたを描いていたので、阿部さんの特徴だった「赤」を基調とした「ねぷた」が自分の中のねぷた絵の基本形なのかもしれない。今も自分は「赤」が鮮烈なねぷた絵に萌える。ねぷた好きな仲間とその阿部さんが講師を務める「ねぷた絵描き方講習会」にも参加。会場は確か市役所の隣の辛子色の建物(現スターバックスの辺り)で、そこで初めて小さな牡丹刷毛を買った。気分はいっぱしのねぷた絵師だった。自分の描くねぷた絵はヘタクソだったけど、間近で阿部さんが絵を描くところを見れて興奮したものだ。今でも毎年「ねぷた速報ガイド」をバイブルの様に大切に持ち歩いている「ねぷたキッズ」を見かけると、あの日の自分を思い出し二ヤっとしてしまう。

ねぷたに関する子供の頃の思い出はまだまだ他にもたくさんある。子供の頃のひと夏の経験は大人になった今も心の中で生き続ける。そして、この街で活き活きと暮らす大切な原動力となって行く。そう考えると憎っくきコロナの影響で、2年に渡って子供たちにねぷたの楽しさを経験させてあげられないのはとても残念である。

来年は、ねぷたが文献に登場して300年。子供たちにこの記念すべき節目のねぷたまつりをぜひとも体験させたい。きっと彼らが大人になったら、次の世代を担う未来のねぷたキッズにそのことを語り継ぐはずだ。そうやってねぷたの伝統は続いて行く。

早く本来の日常に戻ることを願うばかりである。

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